地域文化研修2015─神辺の歴史遺産─神辺城跡・要害山城跡・廉塾・本陣をめぐる─

今回は、「地域文化研修」について青木先生からの報告です。

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人間文化学科では、備後地方の歴史遺産や文化をフィールドワークし、地域で生き抜く力を身につける「地域文化研修」行っています。今年度は、大河ドラマ「真田丸」と同時代、中世から近世にかけて地域の中心であった神辺の歴史遺産を、備陽史探訪の会会長の田口義之氏の案内で、下記の通り実地踏査しました。1年生から3年生まで11名が参加し、スクールバスで現地を巡りました。

 2月27日(土)
  9:30 松永スクールバス発着場集合・出発。
  10:30 天分豊姫神社から神辺城跡まで登山。石垣、蟻地獄、三の丸、
       二の丸、本丸、堀切・毛抜き堀等の遺稿を見学。
  11:00 神辺町歴史民俗資料館見学。
  12:00 山頂で昼食。
  12:30 下山、山麓の四ツ堂、菅茶山の墓見学。
  13:00 天神社登り口から要害山の城跡まで登山。土塁の遺稿を見学。
  13:30 廉塾、本陣など、旧山陽道沿いを散策、見学。
  14:30 天分豊姫神社前からスクールバスに乗車、帰路。
  15:00 松永スクールバス発着場到着、解散。

今年度、3年次の青木ゼミでは、井伏鱒二の小説「鞆の津茶会記」を読んでいます。そこには、戦国時代の備後周辺の地侍たちの様子が語られています。中でも、織田信長が中国地方に攻めてきたために地侍たちの間に毛利、尼子、織田のいずれにつくかで動揺が生じる様子が描かれています。

最も印象的なのは、「天正十六年五月二十七日」の茶会記で語られる、神辺城主であった杉原家の兄弟の相続争いで、弟が調略によって織田方につくべきだと兄に持ちかけたが、兄は反対。そうこうしているうちに信長が滅ぼされ、秀吉と毛利の和睦が成立したため、弟は密謀の発覚を恐れて、家来と申し合わせて二の丸に兄を呼び出して殺害した、と小説には書かれています。

今回は、事が起こった神辺城の「二の丸」にも行き、事件を実感することが出来ました。ただ、神辺城は何度か作り直されており、最後は水野勝成が拠点を福山に移し、福山城を築く際に神辺城の部材を利用したため、遺稿はほとんど残っていないとのことでしたが。

神辺城跡登山

神辺城は、旧山陽道沿いにあり、鞆の津ともつながる要衝の地にあって、備後一体の押さえの城であったとのことです。山の名は黄葉山、麓には天分豊姫神社があり、古来人びとの生活の中心の地であったでしょう。天正十六年(一五八八年)の五十年前、一五三八年には、神辺城は尼子氏支配の山名氏の城でしたが、当時山手銀山城主であった杉原理興(大内方)によって攻略されて、その城となりました。その後、大内氏が尼子攻めに失敗すると、杉原氏は尼子方に寝返ったため、神辺城は、大内・毛利氏によって攻撃されます(一五四三年~一五四九年)。これは「神辺合戦」と呼ばれて、有名な戦です。

神辺城跡から町を見下ろす

要害山頂上で

その戦の際、大内氏は、神辺城の向かいの要害山に砦を築いて家来を滞留させ、高屋川を挟んで激戦を繰り広げたそうです。この要害山の砦は、古代円墳の上を切り取り、古墳の周りの堀をそのまま利用した土塁で周囲をめぐらした平地の上に立てられていたとのことです。今でもその土塁の遺稿がそのままに残っています。この土塁は、「屏風折り」と言われる、ぎざぎざに折れ曲がった形になっており、下から攻めてくる兵士の視線の死角になるように作られているとのことです。この砦は、一五四八年に築城され、翌年の九月には放棄されたとのことで、築城の年代がはっきりしていること、その後そのままの形で残っていることなどのため、当時の築城技術をそのまま見ることのできる極めて貴重な中世山城の遺稿であるそうです。
廉塾にて
天神社で
当時の戦は、兵士がこの砦から繰り出して、麓の田畑の作物を春は「麦なぎ」、秋は「稲なぎ」といって、みんな刈り取ってしまい、兵糧攻めをして次第に敵の力をそぎ取るなど、武力のみならず、あの手この手を使っての攻略がなされたようです。このとき、神辺城方は城に隠って手詰まりの状態になっていたであろうとのことです。六年間にわたる激戦の末に神辺城方は敗れて、尼子氏の本拠である出雲に敗走しました。その後、大内氏が敗れると、杉原氏は毛利氏に許されて神辺城主に復帰、その子孫が、織田の中国攻めの際に、前述の内紛を起こすことになるのです。

今はもはや「強者どもが夢のあと」ですが、古い地域の歴史に浸った一日でした。

※ 写真は中国新聞エリア通信員粟村真理子さんからの提供です